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真田氏の史跡を歩く(5) 松代市街地にて [2013旅行]

上田市から長野市松代地区へは約35kmほどの近さなので、
当初はR18にて周辺景色を眺めながらクルマを流しつつ、
途中みんなでどこかで昼食とお喋りを交わし愉しみながら移動するつもりであった。
(次図の赤点線)

しかし予定時間を2時間近くもオーバーしたならば、マダムと相談して、
上信越高速道で一気に松代へ向かい、
昼食は各自クルマの中でコンビニ食として時間節約することとした。
(次図の黄色線)

そのために上田菅平ICへ向かう道路は、結局前日より2往復したことになり、
市内の大通りも自然と覚えてしまったりして、それはそれでよい (^_-)

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パンをかじり、おにぎりの米粒を口の周りに付けて、軽く玄米茶をこぼし、
長大トンネル続きの高速道を爆走すること1時間も経たぬうちに松代へ到着!

さあ最終回もBGMは・・・  → 真田太平記 オープニングテーマ

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松代は信之を祖とする松代藩真田氏10万石の城下町として、
江戸時代を約250年間生き抜き、明治の世を迎えた。
信之は当初上田を領地としていたが、大阪の陣の後に松代へ移封となった。
ゆえに真田氏の活躍を後世に伝える史跡や家宝が数多く残っている。
そこで、ここでは松代(海津)城跡、真田宝物館、長国寺を訪ねる。


まずは松代城跡だが、この城は以前川中島の戦いで武田信玄が海津城として築城し、
上杉謙信との戦いに備えた最前線の基地であった。

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おお、城がちびっ子上杉軍の猛攻にさらされている!
小石を蹴りジャリジャリ、カキーン!と荒々しい武者ぶりは見事!一番乗り~♪

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その川中島の戦い当時は幸隆、昌幸も参戦した地であり、
その後世に信之が当地へ入城するも奇縁と云える。
(現代の我々も上田と松代は近いので訪問には非常に助かる (^_-)v )

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当時は印象的な堀に囲まれた、まるで水城とも思える城だ。

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しかし明治の世に城は破却され、遺構は忘れ去られたように風化してゆく。
16年前に訪問した時は僅かな石垣が確認されたが、特に観るべきものも無く、
かつ重機で工事中であったので遠目に眺めて終わりであった。

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しかし近年の復元工事により見事に現代へ復活は重畳だ。
二の丸衞門より太鼓門にて本丸へ。

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当時、時を告げる太古が設置されていたので太鼓門という。

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多くは復元石垣だが、本丸御殿櫓台辺りは当時の石垣が確認出来る。

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搦手の北不明門から本丸を後にし二の丸跡をぶらぶらと散策だ。

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旧大手門があった池田満寿夫美術館前に、
発掘調査により確認された貴重な三の丸水堀跡がある。
これが拘りの “ 本物 ” であることで興奮したりする。

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城跡は復元が多いゆえか、整備された公園風情の面を強く感じてしまった・・・(ノД`)
まずはさらば、真田藩主の城、川中島合戦の舞台よ!


さて、その隣には昨年廃線となった長野電鉄屋代線の松代駅が望めて、
周囲は再開発となるのであろう、綺麗に更地とされていた。

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16年前は、この松代を見学し、松代駅から屋代駅を経由し上田へ向かったのだ。
あの日通った廃線跡に時の流れの哀愁を感じること、いとをかし (-_-)

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さていよいよ隣接する、真打ち登場は真田宝物館だ。
  → 真田宝物館 公式ホームページ

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真田氏400年の貴重な資料が収蔵展示され、武具、調度品、文書、美術品と幅広く、
ファンには堪らないお宝だらけ (^^)d
武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、石田三成らの書状も痺れるが、
胴に梯子は縁起が良いとされる昌幸着用の昇梯子の “ 本物 ” 甲冑に脳天クラクラ・・・

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・・・のはずであったが、当日はなぜか展示されていない (ノД`)
(どこかへ貸出し中であったかも・・・(未確認))

まずは館内を満喫した後にロビーでまったりと休憩し、
目の前での、燃える赤甲冑での記念撮影の親子の様子を拝見。
(私も子どもに戻り、着用撮影して欲しいかも・・・頭の中は子どもなのだが・・・)

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旅の終盤を締める骨太の良き歴史館訪問であった。

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上田市内同様に、ここでも六連銭が町内の至る所に見える。
暇そうなチビたちに「六連銭をさがせ~い!」、「あった!」、「あそこも!」と。

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そして最後の訪問は真田家菩提寺の長国寺。
前日真田の庄で訪問した長谷寺が、
信之の松代移封に従い移転し、長国寺と改められた。

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黒く精悍かつ華やかな信之の霊廟は国の重要文化財だ。

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その妻部の鶴の彫刻は名工左甚五郎作とのこと。

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そしてクライマックスは、真田家歴代藩主、信之からの墓が一同にあること。
明治の廃藩置県で藩終焉の主の10代幸民(ゆきもと)前までの藩主が眠る。

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幸隆、昌幸、幸村らは供養碑のみとなるが、
幸村と息子大助は「様」づけなのが可笑しい。

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ここでは住職なのか不明の謎のオヤジさんによる説明により、
大変判り易く、興味深く訪問することができ、誠に有り難かった <(_ _)>

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本堂屋根には真田家家紋の六連銭以外の雁金も確認出来る。
真田氏の誇りが西陽に映える絵が、いよいよ旅の終焉を告げるようで印象深かった。

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・・・ということで、
真田氏オールスターの奉られている寺は非常に重く深い感慨を抱かせてくれた。

詳細はこちら → オレの寺! 長国寺 


当初は、ここから川中島合戦跡地、善光寺へと参る計画であったが、
時計は既に16時を廻ったので、ここで濃厚な旅を終了とする。
明治まで続いた真田氏の宝物館と菩提寺で締めるが最も相応しいだろうし。

没落した一族を中興した「攻めの弾正」幸隆。
大勢力に囲まれて、吹けば飛ぶような小勢力ながら、
変転する難しい時代を巧みな外交と合戦により乗り切った「表裏比興の者」昌幸。
大阪の陣で敵にも賞賛された戦いぶりで真田の武名を普遍とした「日本一の兵」幸村。
そんな彼らの事実と虚偽が混在しつつも、今日よく伝えられているのは、
信之を始めとする家系が明治の世までよく続いたからに他ならない。
大阪の陣の後、徳川の憎き敵として幕府による藩取り潰しの陰謀渦巻く中を、
さながら武器を持たぬ戦いに勝利し、藩の礎を築いた信之の功績は大きい。
・・・ゆえに三代4人なのだ!

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そんな興奮を表す私のお土産たち (^^)v

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もちろん訪問各所での資料、パンフレット、入場券なども思い出の逸品。
これらをファイリングし、後日パラパラと見返すことも愉しい (^^)

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そして何よりも!
そんな旅を気持ち好く送れたは、良き仲間に恵まれたからに他ならない。
俺の城!氏とマダムよ、本当にありがとう!
キミたちと共有できたからこその “ 夢の旅 ” であったことは言うまでも無い (^^)v

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また2日間にわたり、男も敵わない気っ風と走りで、
不案内な道も含め終始先導してくれたマダムありがとう<(_ _)>

長野ICで右と左に別れて、お互い手を振りつつ走り去る光景は今も脳裏に鮮やかだ。
遠足は家の玄関に至るまで遠足・・・我らも4時間後には無事帰宅だ。

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そんなこんなで信州と上州の真田氏の主戦場を確かに承った!
次は昌幸と幸村が配流された紀州高野山と、幸村が伝説を生み残した大阪だ!

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さらばその日まで・・・我らの歴史旅浪漫は終わらない (^_-)☆       (おわり)


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